田中謙次の宅建試験ブログ

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ペリリュー島の戦い

ペリリュー島

日本から3200㎞離れたサンゴ礁に囲まれた周囲26㎞の小さな島。

あまり知られていないが、第二次大戦当時、もっとも過酷な戦闘が繰り広げられた場所として名を残している。


それまでの日本軍の戦い方は、名誉ある戦死にこだわる玉砕であった。

しかし、制空権・制海権を失った当時の我が国の残された道は、本土決戦への連合軍の躊躇、その間におけるより有利な条件での講和条約の締結であった。

そのためには、玉砕による名誉ある戦死よりも、戦闘を長期化し進軍を足止めできるゲリラ戦が有効であった。

洞窟内に立てこもるゲリラ戦としては、映画等の影響もあり、硫黄島での決戦が有名であるが、実はペリリュー等での決戦のほうがより残虐で非道で悲しい最初のゲリラ戦であった。

我が国の当時の帝国陸軍守備隊約1万人は、なんと最後まで戦って生き残ったのが34人であった。太平洋戦争における最悪の致死率だそうだ。

あまりの過酷さがため、この戦いの情報は、ずっと公開されずにいた。

2014年、アメリカでそれを記録したフィルムがみつかり、先日、NHKで特集が組まれた。


その戦いで生き残った方が、なんとまだご健在でした。

彼の言葉が頭に焼き付いた。

戦後はじめてペリリュー島に訪れた彼は、上官の墓の前で泣き崩れ、「サソリを2匹、小さい瓶の中に閉じ込めて、殺し合いをさせたような戦いだった。どちらか死ぬか…。もう逃げ場のない戦い。」と話した。

そのあとに流れた番組の映像を見て、その言葉の意味がよくわかった。

大東亜戦争は、それ以外にも過酷な戦いは多かったが、悲しいと表現したのは次の理由からだ。

ペリリュー島連合国が戦略するのは、その先にあるレイテ島を制圧するため、そこに爆撃機を飛ばせる距離にあるペリリュー島の飛行場をどうしても手に入れる必要があったからだ。その師団長は、ウィリアム・ルパータス少将でした。彼は3日で片が付くと思っていた。それは、当時のわが国が追いつめられると自ら刀で切り込んでくる玉砕作戦が主流だったからだ。

しかし、この戦闘から我が国は万歳突撃の玉砕が禁止され、徹底抗戦のゲリラ戦になっていたため、想像以上の負傷者が連合国側に出た。

実は、この作戦の途中で、別働隊がレイテ島を制圧していたので、ペリリュー島の戦闘の意義は失われていた。それがため、ペリリュー島に残された兵士は、日本政府からもアメリカ政府からも孤立した目的すら失った泥沼の殺し合いになっていった。

 

原爆を肯定するつもりはないけど。

当時のあの状況においては、おそらく、原爆の投下がなければ、日本本土でも玉砕禁止の民間人を含めたゲリラ市街戦が行われていたんだろうなと思った。

歴史に、たらればは禁物だけど。。。

近年、当時故意に隠されていた戦中・戦前の資料が多く露見してきて、私たちが学校で学んだ事実とは異なる事実を目の当たりにすると、やむを得なかったという言葉では済まされない気がしてならない。

ギリギリのところで踏み止まり、国土と日本語をなんとか守りぬいた形での敗戦交渉だったのかな。

軍事力の行使は、あくまでも外交の手段であり、目的ではない。

つまり、戦争で勝つことが目的なのではなく、有利に戦争を進め、頃合いを見て外交交渉で有利な条件でこちらの主張を通すことが目的である。

外交は、高度な交渉技術を有する知的な戦いである。これは軍人の仕事ではなく、政治家・法律家の仕事である。

開戦から戦時中において、我が国の外交は軍人が行っていたから、軍部の意向を無視できず、身動き取れない外交しかできなかったんだろうな…。

 

 

 

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